全国のいろいろな世代のみなさんが職員室での懐かしいの記憶を共有するページです。
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水泳部の顧問がイケメンマッチョでプレイボーイで名を馳せていた。 悪さをして何回も呼び出された 沖縄生まれの平良先生懐かしいなぁ 私だけかも知れませんが、職員室に入るとチキンナゲットの匂いがする気がしました。 職員に用事があると1部の教員がタバコを吸っていました。タバコ臭かった。失礼しますと言わないと注意されました。。 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 日番日誌を朝休みに取りに行ったとき、
先生たちの会議で
とても入りにくいww
先生の机がグッチャグチゃ いつも職員室で立たされていた迷惑な奴が車イスに乗っていた。何があった?今は50歳くらいな普通じゃない男。 冬に入ると、コーヒーの香りと暖かい空気のせいでとても落ち着ける。
クラブの前に入って名簿と鍵をとりに行く時の緊張感が嫌い 先生たち、おやつ食べてたそうだよ( ^ω^) |
幼馴染との想い出、遠足、学芸会...みんなどうしているかな?
初恋のあの人、憧れの先輩、部活の元気にやってるかな?
お世話になった先生、親友たち久しぶりに会いたいな?
尊敬する教授や昔の仲間に久しぶりに会いたい