当時の今頃ニュース(5/21~5/27)

新洞小学校 1964年卒業生('51/'52年生まれ)再会広場

足あと(2022/10/17 06:49:53:)
転入の先生が、ホンマはここ、しんとう小学校て言うんやでと吹聴していたけど、当時はみんなしんどう小学校と呼んでいた。 のちに何らかの有力な意見で、しんとう小学校という読み方がオーソライズされたものと思われる。
(2022/06/15 08:18:58:a)
足あと(2021/07/24 09:28:40:)
イヌの足あと(2020/08/09 20:55:07:)
何年生のときか忘れたが、疎水の水を空っぽにしたことがある。 残念ながら登校日で見ることができなかった。 疎水でM田君と小さな玉網を持って変な生き物を掬うたことがあった。 靴底くらいの黒いもので、上手くすくえたと思ったら、突然ビューと細長く変形したので気味悪く、玉網を投げ捨て2人で一目散に逃げた。 あれはいったい何だろうと話しながら戻ってみると、物体はいなくなり玉網だけが残っていた。
(2020/04/18 19:55:51:A)
校区のメインストリートを通ってみた。60年前にあったお店はほとんど見つからない。 八百屋、自転車屋、和菓子店、交番、食堂(仁王門亭)駄菓子屋(数軒)、蒲団屋、漬物‣味噌店、銭湯、建材店・・・。昔はたくさんあったなぁ。
(2019/09/10 18:49:07:A)
鴨川の水は今のほうが昔よりはるかにきれいになっている。 昔は京友禅の染料を鴨川の水で洗っていたのだろう、紫ベースで赤っぽかったり青っぽかったり濁った水を流していた。 アユがいたなんてとても信じられない。 白川のプールがあった少し下流で着物生地を川の水で洗濯する機械が川の中に設置されていて、その楕円形のドラムに生地の輪が何本も掛けられ、バッタンバッタンと大きな音を立てて回っていた。
(2019/08/22 06:53:11:A)
最近福知山のロデオざるがニュースによく出ているが、旧」岡崎動物園の猿山には猪も入れられていて、その背中に猿がのっかっている場面もよく目にしました。 1頭のイノシシに2匹の猿が乗っていることも。
(2019/07/08 07:21:52:A)
低学年の時、夏休み前に学校で育てた朝顔を持ち帰るが、肥やしになると思い、こっそり毎日小便をかけていたら、枯れそうになった。
(2019/06/18 16:17:04:A)
同級生4、5人でそれぞれ自転車に乗って南禅寺を探検中、何かの建物の前にたどり着いた。その前に木から妙なものがぶら下がっていて、これなんだろう?とみんなで話していた。そういえば田舎育ちの母親が、アケビという果物のことを話していたが、特徴が酷似している。みんなにこれはアケビと言う食べられるヤツだ、と言ってもだれも信用しない。自分も半信半疑のところがあって、食べたりはしなかった。むしろ誰かが言った、中に虫が入っている、というほうが説得力があるように思えた。帰ってそのことを母に確かめると、やはりアケビだったようだ。なお不思議なたたずまいの建物は「一燈園」という施設だった。
(2019/06/05 19:37:54:A)
U田Y子さんははっきりした物言いで、成績が良くて身体も大きく、隠れファンも結構いたようだ。でも男勝りな発言に憤慨した男子たちが、学活(学級活動=ホームルーム)の時間に個人攻撃し、遂に泣かせてしまいました。申し訳ないことに学級委員の自分もこの作戦に加担していました。そこで担任が割って入り、叱られたのかもしれませんがそれよりやり込めた満足感が男子たちにありました。でもそれだけ存在感のある女子だったんですね。元気にしてるかな。
(2019/02/12 19:43:08:A)
毛筆を習いに行っていた。今の地図を見ると正行寺辺りになるのかな、住職が先生で。毎週土曜日だけど1か月に5週あるときはどこかの週で「先生・・・中につき休みます」という張り紙が。同級生のM田君がこの先生の真似をして「こうしてちからいれてもどしてはねる」と、お経か歌うように言うのが上手だった。
(2019/02/04 18:14:51:A)
鳥の足あと(2019/01/18 08:18:48:)
疲れたら、ああしんどうこう、というギャグが定番だった。
(2019/01/17 20:11:38:A)
新洞小学校はみんなしんどう校と呼んでいた。同じ市内にある新道校はしんみちこうと呼ばれていたようだ。同じ呼び方だと誤解を招くからだったのでは。洞という字は通常とうとは読まず、どうと読み、洞窟、鍾乳洞、青の洞門などどうと読む字しか思い出せないが、母親などふざけてしんほら小学校と呼ぶことがあった。なお新潟にある新道小学校はしんどう小学校と呼ぶようだ。
(2019/01/14 18:13:16:A)
新洞校から仁王門通りをさらに西へ。仁王門通りの名前の由来となる頂妙寺は他のオープンなお寺同様小学生の遊び場だった。この境内に桑の木があり、先生から貰った蚕にこの葉っぱを与えていた。卵を産み、増えていったが夏休みに1週間ほど家族で留守にしたら、全滅していた。桑の実は甘いが濃い紫色の汁が出て口や衣服を汚すことがあった。
(2019/01/12 18:30:26:A)
新洞小近くの銭湯をグーグルマップのストリートビューで探してみた。ストリートビューは2018.3に撮影されており、結構新しい。これによると銭湯はすでになく、ついでに新洞学区のメインストリートである仁王門通りを確認してみた。東山仁王門から西に進む前に、まず京都新聞の配達所が無くなっている。角の質屋さんとお寺は昔のままだが寂光寺の境内は航空写真を見れば門を入ってすぐ左に大きな建物が建っている。八百屋さんが無くなっている。仁王門通りを西に進むが交番所が無くなり、布団屋さんも無くなりきれいな住宅になっている。隣の石材店も昔のように外から石材が見ることはできない。向かいのお寺では昔尼さんが人形の塗装作業をしていたが、そんな形跡は跡形もない。仁王門亭だったか、食堂もない。保育所8新洞保育園)もお好み焼き屋さんもない。和菓子屋さんも駄菓子屋さんも無い。でも、学校近くの漬物屋さんは、食料品店として残っているようだ。隣の畑はなくなっているが。
(2019/01/11 07:39:28:A)
小学校近くに銭湯があり(塩湯だったかな)途中に貸本屋があって風呂帰りに白戸三平の漫画を借りるのが定番だった。
(2019/01/06 18:20:59:A)
(2019/01/02 17:34:22:) 入学直後くらいはお店など営業を除き、一般家庭に電話のある家は少なく、ガスが来ていない家もあった。大阪ガスというから、ずいぶん遠くからガスを送っているんだと思っていたけど、本当はどうだったのかな。
(2019/01/02 17:48:02:A)
足あと(2019/01/02 17:34:22:)
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