真岡市立真岡東小学校の理科室

懐かしい真岡市立真岡東小学校の記憶を共有するページです。

真岡市立真岡東小学校の理科室

真岡市立真岡東小学校の理科室での様々な思い出を教えてください。懐かしい想い出をぜびみなさんと共有してください。例えば理科室にあった不思議なものや雰囲気や匂い怪談話や伝説など教えてください。

真岡市立真岡東小学校
理科室の思い出

※ユーザ名と削除パスワードは必須ではありません。

例)










[注意]個人を特定できる投稿・誹謗中傷・その他不適切な書き込みは削除いたします。またそうした不愉快な書き込みを見つけた方は「問い合わせ」より知らせていただければ削除いたしますのでご協力よろしくお願いいたします。

その他の思い出ページものぞいてみてください。

懐かしの光景・思い出

学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。

体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室

うわさ話・エピソード

あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。

給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録

想いを伝える

昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。

感謝 謝罪 告白


他の小学校の理科室での記憶

理科室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 理科室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。
理科室やはり、実験といえば、アルコールランプ、分銅ですね。 五年生の時は、分銅の扱いが良かったせいか、分銅君と呼ばれた時期もありました。
理科室針金虫:カマキリを殺したことがありますが、腹からびっくりする程長い虫が出て来ました。黄色い色でうねうねと動きます。寄生虫らしいですね。
理科室理科室はビーカーを誰かがわって騒いでました
理科室理科室の骸骨が入ったロッカーの番号カギを男子が開けて、骸骨が丸見えの時怖かった。
理科室ハチの巣が置いてある
理科室理科室で実験をいっぱいした。今でも忘れられないのは、豚の腸を洗って伸ばしてはかった実験 後で先生が焼いて食べてた 腸って聞いてたから衝撃的でそれからだったいつも食べてた肉が動物の筋肉や臓器だって知ったのは、食べるってことは、命もらうってことって鮮烈に感じた。
理科室アルコールランプって今は使わないんでしょうか?もう一度、あの香りを嗅いでみたい。
理科室旧校舎の理科室の場所がどの辺にあったのか思い出せない。ホルマリン漬けのカエルなどがあったり人体模型があって気持ち悪い印象だけが思い出されます。
理科室時代の差?理科室の記憶がない。
理科室何かの動物の大きな頭の骨が2つ、床に置いてありました。その当時は恐竜と思い込んでましたが、たぶん大型哺乳類でしょうね。今もあるのかなー

小学校での他の場所の記憶

他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。
屋上社会の授業のときにしか入ったことないなぁ〜
屋上天気が良いと、新宿の高層ビル群が見えた。西東京スカイタワーもワンズタワーも無く、西武球場にドーム屋根がつく前の話。
トイレやまざきゆいちゃんをゆうかいしてほしいです
給食ツナライスが美味かった
校庭
給食給食用のエレベーターが羨ましい
飼育小屋うんこがめっちゃ落ちてたww
職員室小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。
文化祭1~5年?生までが物を作って売って、6年生が会議室を使ってお化け屋敷をしていたが、2000年代?以降に清小祭は無くなった。
図書室私が卒業する年に、三階から一階へと移動になりました。 当時六年生だった私たちは本の移動を手伝ったことを覚えています。図書室だった教室にはパソコンが導入になりました。時代の流れを感じました。


ページの先頭へ